心理的カノッサの屈辱
心理的カノッサの屈辱について説明する前に、まずは歴史上の出来事「カノッサの屈辱」について、簡単にまとめてみます。
- 11世紀の中世ヨーロッパで起こった事件。聖職者叙任権をめぐって、"ローマ教皇グレゴリウス七世"と"神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世"とが対立していた。
- 1076年、皇帝ハインリヒ四世が「ローマ教皇の廃止」を宣言。
- 同年、教皇グレゴリウス七世が、皇帝ハインリヒ四世に対して「ローマ教会からの破門」と「王位の剥奪」を宣言。(両者の対立が激化)
- 1077年、かねてより皇帝ハインリヒ四世に不満を抱いていた"有力ドイツ諸侯"たちが教皇側に味方して、神聖ローマ皇帝を廃して、新しくドイツ王を決めることを宣言。
- 同年、窮地に追い込まれた皇帝ハインリヒ四世は、雪が降りしきるカノッサ城門の前で、三日間も断食をしながらローマ教皇に謝罪。(カノッサの屈辱)
ここで注目する点は、これが仮に、"下っ端の枢機卿あたり"がローマ教皇に破門されて謝罪をしたとしても、さほど大きな屈辱感を味わうこともなかっただろうという点です。しょせん下っ端なのですから、何か不手際があって目上の者に謝罪するのはごく普通のことだからです。
要するに、どちらが優位なのか微妙な状況、つまり、ほぼ対等な関係性の中で、一方的に謝罪・屈服したからこその屈辱なのです。
それでは、「心理的カノッサの屈辱」とはどういったことを言うのでしょうか?
恋愛(片思い)を例にして説明すると、好きな異性に対して、"告白する勇気"と"振られる恐怖"の狭間で悩んだことがある人も多いと思います。この二つはともに感情由来であるため対等関係にあります。
たとえば、勇気を出して告白して振られた場合、これは相手も介在することなので(仕方がない)と思うことができます。しかし、そもそも傷つくのが恐くて告白できなかった場合、その結果を導いたのはあくまでも"自分自身"なのです。
つまり、"告白する勇気"と"傷つくことへの恐怖"が、自分の行動を決める"行動権争い"をした結果、勇気が恐怖に屈服したということです。こうなってしまうと、プライドが傷つくだけでなく、根本的な自信すら失ってしまいます。
(※反対の場合...つまり、"恐怖"が"勇気"に屈して、怖いにもかかわらず告白した場合は、心理的カノッサの屈辱にはなりません。何故なら、感覚的に「勇気を"正"、恐怖を"負"」と捉えているからです。あくまでも、"正"である勇気が勝てば"勝利"なのです。)
また、その他のケースで説明すると、例えば、継続的な行動が必要な場面で、"勉強をする根気"と"遊びたい怠惰"が対立していた場合、"根気"が"怠惰"に屈服すれば、小さいながらも"心理的カノッサの屈辱"状態になります。
ですが、心理的カノッサの屈辱は、自分自身を大きく成長させる起爆剤にもなります。"心理的カノッサの屈辱"は本当に耐えがたいものなので、何回も繰り返し耐え続けることはできないからです。
そう、もう前へ進むしか道が残されていないのです。