歴史やおとぎ話から読み解く人間性や恋愛事情
竹取物語やグリム童話に見られる、美しい姫に求婚した男たちに与えられた幾つかの難題とその対処法の違いや、楊貴妃やクレオパトラがどうして世界三大美女に名を連ねるようになったのか?...など、歴史やおとぎ話から読み取れる、先人たちの人間性や恋愛事情を分析してみようと思います。
坂本龍馬の恋愛相談
坂本龍馬は、江戸時代末期から幕末にかけて活躍した、日本の歴史上とても重要な役割を果たした土佐藩出身の人物です。
のちのち江戸幕府を倒す中心的な役割を果たすこととなる「薩長同盟」の仲介役をしたり、日本国内での破滅的な大乱を防ぐため、土佐藩主を通して江戸幕府に「船中八策」のプランを提示し「大政奉還」を実現させるなど、明治維新という大革命をスムーズに行なわせた功績には計り知れないものがあります。
また、歴史的な功績のみならず、坂本龍馬にはさまざまな逸話が残されており、とりわけ個人としての恋愛についても、なかなかの才能を発揮していたようです。
お嬢さまタイプを口説くには「ギャップ萌え」が有効。
坂本龍馬の初恋の相手は、土佐藩の上流階級のお嬢さまでした。藩の中でもアウトロー(異端児・不良)な人物として有名だった龍馬には、当然、無鉄砲・粗暴な性格なイメージがつきまとっていたことでしょう。
ところが、その初恋の相手には、自分の想いを和歌に乗せたラブレターを送るなど、無鉄砲・粗暴な性格とは正反対の"繊細さ"をアピールしていたようです。
体育会系で男勝りなタイプを口説くには「ロマンチック」と「女子扱い」。
武者修行と学問のためにやってきた江戸では、道場主の娘で、自らも女剣士である男勝りな娘と恋に落ちます。その後、再び見聞を広めるために西へと向かう龍馬は、彼女との別れ際に着物の袖を千切って渡し「これを私だと思って、戻るまで持っていてください。」と言ったそうです。
男馴れした女性や風俗の女性を口説くには「羽振りの良さ」と「器(うつわ)の大きさ」をアピールする。
坂本龍馬が長崎に行った理由は西洋列強の情報を得るためでした。のちのち、その地を本拠地として「海援隊」を結成するのですが、長崎では高級遊郭の芸者と"いい仲"になっていたそうです。風俗で働く女性というのは、普通は一介の客に対してそうそう心を許しません。ところが、龍馬はケチケチせずにパーッと大金を使ったり、そのうえで酒をガブ飲みしながらドンチャン騒ぎをし、最後は潰れてしまうような遊び方をしていました。
そんな羽振りの良い(=器が大きい)龍馬に対して、器の大きさや(最後は潰れてしまうような)下心のない潔さを感じたそうです。
警戒心の強い女性や苦労人の女性を口説くには「ケタ外れの面倒見の良さ」と「運命の出会いアピール」で。
動乱の京都で、のちのち妻となる恋人"お龍"と出会います。お龍は、早くして父親を亡くし、長女としてたった一人で母親と妹たちの面倒を見ていました。いろいろと苦労が多く、そう簡単には他人を信用しない強い警戒心と、自らの力で生き抜くため・自らの力で家族を守るためのしたたかさを持ち合わせていました。
龍馬は、お龍に対して信用されるまでトコトン面倒を見たり、働き口である寺田屋を紹介してあげたりしました。また、名前に同じ"龍"の字がある共通点をアピールして、運命の出会いをさりげなく演出したりもしたそうです。
このように坂本龍馬は、相手の性格や、相手の心情などによってアプローチ方法を使い分けています。もちろん、当時は『恋愛マニュアル本』などもありませんので、龍馬が自分で感じ、自分で判断して行動した結果なのでしょう。
リアルタイムに、相手の気持ちや相手が望んでいることを正確に感じ取り、相手の気持ちに配慮しつつ、相手の望みを叶えてあげるように正確に行動すれば、少なくても"相手を喜ばせる"ところまでは誰にでも可能でしょう。ですが、それで確実に口説けるかどうかは、やはり男の側の"根本的な魅力"によるものが大きいのではないでしょうか。
とはいえ、初恋の女性と江戸の恋人は、龍馬を逃したことを一生後悔していたという話が残っていたり、長崎の恋人(遊郭の芸者)は、龍馬の"無謀な夢"を全力でサポートしてくれたことを考えると、女性からそこまで真剣に想われたということは、龍馬自身の根本的な魅力に加えて、それ相応の喜びやトキメキを彼女たちに与えていたからに他なりません。
坂本龍馬が持つ「根本的な魅力」とは?
女性から見た坂本龍馬の根本的な魅力は、主に2つあると私は考えています。 (※身長が180cm以上あったそうで、長身だった点も含めれば3つになります。)一つ目として、アウトロー(異端児・不良)だったという点です。
要するに、現代でも中学生ぐらいの女子からは絶大な人気を誇る「不良男子」だったということです。
基本的に、女性は「自分よりもレベルが高い男性」に恋心を抱きます。自分よりもハイレベルな相手と接すると、胸がドキドキしたり近寄りがたい気持ちになります。
不良男子に対して抱く(危険を感じて)ドキドキしたり(危険だから)近寄りがたい気持ちを、ハイレベルな男性に対する気持ちと混同してしまうのです。
そんな中学生女子も、大人の女性に成長していくにつれて不良男子に対する興味を失っていきます。不良男子の多くが、単純に自己顕示欲を満たしたいだけで、けっしてレベルが高いわけではないことに気づくからです。もしも、自己顕示欲を満たしたいわけではなく、純粋に世のため・人のためを思い、確固たる信念を持った不良男子が現われれば、たとえ大人の女性であっても、乙女時代の気持ちのまま、その不良男子に対してあこがれる気持ちを抱くでしょう。
二つ目として、大きな夢・大きな目標を持っていたという点です。
くり返しになりますが、基本的に女性は「自分よりもレベルが高い男性」に恋心を抱きます。自分にはけっして足を踏み入れることなどできず、口を出すことすら憚られるような「聖域(夢・目標)」を持つ男性を見ると、女性は、自分自身の"平々凡々さ"を思い知らされます。
男性が何か大事なことに集中しているときに、どうでも良いことで話しかけて無視されたりすると、女性は自分の"くだらなさ"を痛感します。
そして、相対的に・心理的に、相手を"自分よりもレベルが高い男性"と思い込むのです。
(※時と場合によって、冷たい態度をとったり優しい態度をとったりする男性(つまり、ツンデレな男)が女性からモテるのも、これと同じ心理作用によるものです。)
- 確固たる信念に基づいたアウトロー(異端児・不良)だったという点。不良に対して危険を感じることからくるドキドキ感と近寄りがたい気持ちが、相手に対する恋愛感情と混同させる効果をもたらした。また、それが確固たる信念によるものであることから、少女だけでなく大人の女性に対しても、同じ思いを抱かせた。
- 大きな夢・目標を持っていたという点。大きな夢・目標を持っている男性は、女性に対して(自分のくだらなさと比較して)"相対的に"レベルが高い男性と思わせる効果を生み出す。
坂本龍馬にとっての「幸せ」とは?
坂本龍馬は、"人が生まれてくる意味"について、こう話していました。「人は、為すべきことを為す(成す)ために生まれてくる。」
龍馬が、自分が"成すべきこと"と考えていたことは...
「せまり来る西洋列強によって危機に瀕している日本を守ること。日本を、西洋列強に滅ぼされないような強い国に生まれ変わらせること。」
...でした。
このような壮大な夢を抱き、そんな夢を男に語られたら、女性はどんな気持ちになるのでしょうか?...おそらく「途方もない夢物語」と考え、最初は本気になどしなかったでしょう。
ですが、どんどん知識を吸収し、その夢に向けて躊躇なく突き進む龍馬の行動力を目の当たりにして(彼だったら、もしかしたら本当に成し遂げてしまうかもしれない。)と思ったのではないでしょうか。
「人は、幸せになるために生まれてくる。」 ...と、言う人がいますが、これは他人に言ってもらう言葉(他人に言ってあげる言葉)であって、自分自身でそう考えている人は、本当の幸せをつかむことはできないんじゃないかと私は考えます。
- 自分さえ幸せなら、それで良いのか?
- 自分さえ幸せなら、他の人はどうでも良いのか?
- 自分や身の回りの人たちさえ幸せなら、あとは見て見ぬふりか?
- 遠く離れた見知らぬ人々がたとえ不幸だったとしても、そんなことは気にする必要ないのか?
私が思う本当の幸せとは、
「己が為す(成す)べきこと」と定めた信念をつらぬき行動し、一歩一歩夢や目標に向かって近づいていく過程で得られるもの。
...であると、私は考えます。
竹取物語とグリム童話
世界各地に「美しい女性(姫)」に求婚する男性の物語が数多く存在します。
平安時代初期に書かれた『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する5人の男性が登場します。彼らの身分は、5人が5人とも皇族や貴族など身分の高い男性ばかりなのですが、そもそも結婚などする気のないかぐや姫にとっては、お断りする口実が必要だったのです。
そこで、一人一人の求婚者に「絶対に解決不可能」な難題を与えて、それをクリアした男性と結婚すると約束するのです。
- 一人目の男性には「仏の御石の鉢」
- 二人目の男性には「蓬莱山の、銀の根と金の茎と白い玉を実とする木の枝」
- 三人目の男性には「唐土にある火鼠の皮衣」
- 四人目の男性には「龍の頚にある五色に光る玉」
- 五人目の男性には「燕が持つ子安の貝」
...を、それぞれ持ってきて欲しい、本当に持ってきた人と結婚すると約束します。
日本の『竹取物語』では、五人が五人とも"ニセモノ"を作ることに全力を注ぎます。どうやって探してきたか、その過程をいかに真実味を持たせて話すか...要するに、知恵くらべ・誤魔化しくらべがメインのお話になっているのが特徴です。
一方、グリム童話の中の一つ『あくまの三本の金のかみの毛』の中でも、王さまの娘との結婚の条件として「悪魔の頭に生えている金の髪の毛を三本」
をとってくるという難題を与えられた若者が登場します。
ゲルマン民族(現在のドイツのあたり)に生まれた『グリム童話』では、日本の『竹取物語』とは違って、本当に探しに旅立ち、さまざまな妨害があったり、色々な協力者が現われたりして、見事にその難題を解決してしまいます。
このような「美しい姫と結婚するために難題を持ちかけられる男」の物語は、ゲルマン民族や日本だけでなく、世界各地の伝説・昔話の中に数多く見られます。しかし、さまざまな困難を乗り越えて難題を解決する展開が多い中で、日本の『竹取物語』ような「知恵くらべ・誤魔化しくらべ」として物語が進んでいくものは非常にめずらしいです。
ここからも読み取れるように、日本人特有の「モノマネが得意な気質」は、はるか平安時代から受け継がれているのかもしれません。また、欧米のように努力や勇気や冒険心よりも先に、頭の良さや要領の良さを競おうとする気質についても同じことが言えるのではないでしょうか。
楊貴妃とクレオパトラ
「世界三大美女」というものは世界各地に存在します。
たとえば、日本では「楊貴妃・クレオパトラ・小野小町」とされていますが、ヨーロッパの方では「楊貴妃・クレオパトラ・ヘレネ(ギリシャ神話の女神の一人)」などと言われたり、中国では古代中国四大美人として「楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉」などがあげられています。
ヨーロッパの人たちは、日本の小野小町を知っている人などほとんどいませんし、日本人にしても、ギリシャ神話の神々に詳しい人などそれほど多くはありません。ですが、楊貴妃とクレオパトラに関しては世界的に有名です。
楊貴妃とクレオパトラはそれほどまでに美人だったのでしょうか?...それとも「世界三大美女の常連」に名をつらねるようになったのは、何か他の理由があったからなのでしょうか?
「楊貴妃」は、中国が「唐」と呼ばれていた時代の蜀州に生まれました。
生まれたときに芳香(=良い匂い)が室内に充満したという言い伝えが残っています。
楊貴妃は、その類稀なる美しさと、音楽や踊りなど芸術方面においてずば抜けた才能を持っていたので、当時の玄宗皇帝の寵愛を受けるようになりました。
ところが、彼女を寵愛するようになってからの玄宗皇帝は、政務を怠って楊貴妃とともに遊興にふけるようになり、彼女の兄弟や親類縁者たちも優遇されて政治的に力を持つようになりました。
そのため、楊国忠ら楊一族への反感が国民の間で高まり、ついには「安史の乱」という大乱を招いてしまいます。乱を逃れて、楊貴妃の実家がある蜀州へ向かう途中で「乱の原因は楊一族にある。楊貴妃も例外ではない。」と主張する部下や兵士たちに捕らえられます。玄宗皇帝は「楊貴妃は後宮にいただけなので関係ない。」と彼女を庇いますが、ついには彼らの要求を受け入れざる負えなくなってしまいます。そして、楊貴妃は首つりの刑にて38歳の生涯を閉じるのです。
「クレオパトラ」は、プトレマイオス朝エジプト王国の最後のファラオ(王様・女王様)です。プトレマイオス家は、もともとがギリシアのマケドニア出身のため、クレオパトラもギリシア系の美しい顔立ちでした。また、クレオパトラは、植民地のすべての言葉を自由自在に話せるとても知的な女性でした。
先代のファラオである父が亡くなったあと、エジプトでは、クレオパトラと弟とのあいだで王位継承争いが起こります。
クレオパトラは、隣国のローマ共和国(後のローマ帝国)で権勢を極めていた実力者「カエサル」を味方につけるために、いわゆる女の武器を使ったのですが、そのときに最も効果を発揮したアイテムが、当時はまだ珍しかった「香水」だったと言われています。
クレオパトラの魅力に夢中になってしまったカエサルは、彼女をエジプト女王の地位につけて、征服するのではなく「同盟国」としてエジプトを優遇します。そして数年後には、クレオパトラをローマ本国へと招いて盛大なパレードを催しました。
一方、カエサルの独裁者ぶりに危機感を持っていたローマ共和国の元老院議員たちは、そのパレードを見て「いよいよもう限界だ。」と悟り、数日後にカエサルを暗殺します。
その後、ローマ共和国では、カエサルの部下だったオクタビィアヌスとアントニウスの権力争いが始まります。オクタビィアヌスはクレオパトラを嫌っていて、エジプト王国を滅ぼそうと考えていました。そこでクレオパトラは、またまた女の武器を使って、今度はアントニウスを味方に引き込みます。ですが、このことで「アントニウスもエジプトを優遇するのか?」と思われてしまい、彼もローマ本国にいられなくなってしまいます。
そして、最後は「アントニウス・クレオパトラ連合軍」VS「オクタビィアヌス・ローマ諸侯の連合軍」の戦いが起こり、アントニウス・クレオパトラ連合軍は破れてしまいます。クレオパトラは、ローマ軍に包囲されたエジプト王宮の中で毒蛇に胸を噛ませて自害し、39年の生涯を終えました。
世界三大美女の常連に名をつらねる楊貴妃とクレオパトラにはいくつかの共通点が見られます。
- 嗅覚(匂い)に関すること
- 高い知性や教養があったこと
- 時の権力者の寵愛を受けたこと
- その権力者が誤まった政治を行なったこと
- 国が傾く・政変が起こったこと
- 非業の死を遂げたこと
つまり、ひと言で言えば「時の権力者が、政務を怠ってしまうほど心を奪われた美しい女性」ということになるのでしょうか。
その点をふまえて考えてみると、日本の小野小町が世界三大美女に入ってくるというのは、少々おかしな話のようにも感じます。たとえば「日野富子(※1)」や「天障院篤姫(※2)」や「淀君(※3)」たちがもしも美人だったとすれば、そっちの方が小野小町よりも、遥かに「(日本版)世界三大美女」の一人に加えるのに相応しいのではないかと思うのですが...。
- 日野富子(ひのとみこ)…室町幕府第八代将軍「足利義政」の妻。将軍継嗣問題における彼女の一連の行動が、戦国時代の発端となった"応仁の乱"の一因とされている。日本三大悪女の一人に数え上げられることもある。
- 天障院篤姫(てんしょういんあつひめ)…江戸幕府第十三代将軍「徳川家定」の妻。家定が病弱なため、事実上、彼女が幕府の実権を掌握していたとも言われている。天障院篤姫も、日本三大悪女の一人に数え上げられている。
- 淀君(よどぎみ)…豊臣秀吉の側室。秀吉の寵愛を受け、豊臣家の跡継ぎ「秀頼」の生母として実権を握るが、その気性の荒さや思慮の浅さから徳川家康の策略にはまり、豊臣家の滅亡を招くことになる。織田信長の妹で、絶世の美女と言われていた「お市の方」の娘でもあることから、淀君も美人だった可能性が高い。
まとめると、楊貴妃やクレオパトラのように「傾国の美女」とも言われ「国を傾けるほどの影響力を持った美女」こそが世界三大美女の条件と考えられるわけですが、同じく「高い知性と教養」と「嗅覚(匂い)に関すること」が、その他の共通点としてあげられることが注目すべき点でしょう。
つまり、女性はただ見た目が美しければそれで良いというものではなく、高い知性と教養があってこそ、初めて「それに見合った男性」の愛情を受けることができるということです。また、男性の心を射止めるポイントとして、男性の嗅覚に訴えるのが最も有効な手段の一つなのかもしれません。
マリー・アントワネットの本性
マリー・アントワネットには「わがままな性格」で「浪費家」というイメージがあり、彼女の言動や振る舞いが、フランス革命で民衆の怒りに火を点けた原因の一つとされていますが、これには諸説あることが知られています。本当のマリー・アントワネットとは、いったいどんな女性だったのでしょうか。
マリー・アントワネットは、オーストリアのウィーンの名門ハプスブルク家に生まれ、オーストリア宮殿でとても家庭的な環境に育ちました。
幼いころからイタリア語やダンスを習い、作曲家グルックのもとで身に付けたハープなどの演奏は、彼女の最も得意とする分野でした。
14歳のとき、マリー・アントワネットはフランス国王ルイ15世の孫(のちのルイ16世)と結婚します。政略結婚でした。
そのころのフランス宮廷(ベルサイユ宮殿)内では、女性同士の仲が非常に悪く、いくつかの派閥に分かれて常に対立していました。夫であるルイ16世との夫婦仲もあまり良くはなく、それらのストレスを発散するために、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたり、子どもが生まれるまではギャンブルに熱中することもありました。また、マリー・アントワネットはファッションセンスに優れ、彼女が好んで着ていたブランドドレスやヘアスタイルや宝石は、フランス宮廷内だけでなく、周辺諸国の上流階級の女性たちにも流行しました。
このように、公私ともに派手な生活を送っていたマリー・アントワネットは、いつしか"わがままな浪費家"というレッテルを貼られて、貧困にあえぐ国民の"憎しみの象徴"にされてしまいます。
そして、とうとう悲劇が起こります。フランス革命の勃発です。
政治犯の多くが捕われていたとされるバスチーユ監獄を襲撃した民衆は、そのままルイ16世やマリー・アントワネットをはじめとする国王一家を拉致・軟禁します。
さらに、国王一家は、ひそかにフランスを脱出してオーストリアに亡命しようとしたことで、まだわずかに残っていた「親・国王派の国民」からも見離されてしまいます。再び捕えられた国王一家は、新たな革命政府による裁判で死刑判決が下されます。そして、マリー・アントワネットは、民衆の面前でギロチンにかけられて37歳の生涯を終えるのです。
そもそも、フランス革命が起こった背景としてあげられる要因は、以下のようなものでした。
- モンテスキューやルソーなどの啓蒙思想家によって「身分制社会・封建社会への批判」が民衆の間に広がったこと。(思想的な背景)
- もっとも華やかに浪費を積み重ねたルイ14世の時代からの累積赤字や、アメリカ独立革命を支援したときの軍事費などによって国家財政が窮乏し、その負担が市民や農民に「増税」として降りかかったこと。(社会的な背景)
つまり、マリー・アントワネットの「わがままな性格」や「浪費行動」は、思想的な背景においても社会的な背景においてもあまり関係がなかったのです。そして、そのわがままな浪費生活によって貧困層の憎しみを一身に集めてフランス革命の「感情面での元凶」のように位置付けられてしまったマリー・アントワネットは、のちの研究者によってさまざまな「擁護論」が展開されることとなりました。
パンがなければ、お菓子を食べれば良いじゃない。
「パンがなければ、お菓子を食べれば良いじゃない。」...
これは、飢饉によって国民が飢え苦しんでいるときに、マリー・アントワネットが言ったとされるの有名な言葉です。確かに、現代の私たちからすれば「空気が読めないにも程がある!」言葉に聞こえます。
しかし、当時のフランスには「飢饉などによってパンが不足したときは、普段は高価なお菓子などをパンと同じ値段にまで下げなければならない。」という法律があったというのです。
また、この時代は、パンを作るためには"上質な"小麦粉を使い、お菓子を作るときには"質の悪い小麦粉"に卵や砂糖を混ぜて作っていたらしく、実際に「パンはないけど、お菓子ならある」状況がたびたび起こっていたそうです。
そう考えると、マリー・アントワネットの言葉も、そこまで「無神経な発言」とは言い切れないのではないのでしょうか?
ただ、そのときは、たび重なる飢饉によって「パンもお菓子もない」状況だったらしいのですが、宮廷内にいるマリー・アントワネットはそのことを知らずに「お菓子の値段を下げる法律」を発動させる目的で、この発言をしたのではないか、という説が有力になっています。
ギャンブルなど浪費癖について。
確かに、ルイ16世と結婚した当初はギャンブルに走ってストレス発散していましたが、そんなマリー・アントワネットも、子どもが生まれると同時にギャンブル癖は治っていたようです。また、自分の子どもにはおもちゃを我慢させたり、彼女が好んで周辺諸国の上流階級に流行させたファッションは、実はとても質素なデザインだったことなど、浪費家どころか倹約家としての一面ものぞかせていました。さらに、貧しい人々に対しては宮廷内で施しを行なうなど心優しい一面もあったというのです。にもかかわらず...
「マリー・アントワネット=わがままで、国家財政を喰い尽すほどの浪費家」
...といったレッテルを貼られてしまったのは、かつて宮廷内で派閥をつくって対立していた女性たちが、市民や農民たちに「あることないこと悪口をふれ回っていた」ことが原因だったようです。
はたして、マリー・アントワネットという女性の真実の姿は、いったいどちらだったのでしょうか?
歴史上の位置づけ通り「わがままな浪費家」だったのでしょうか?...それとも「心優しい倹約家」だったのでしょうか?...
私は、このどちらの可能性もあると考えています。裕福な家庭に生まれて何一つ不自由なく育った人の性格は両極端な2つのタイプに分かれます。
- 経済的に恵まれて、欲しいモノもすべて買い与えられてきたけど、両親からの(精神的な)愛情はあまり受けずに育つと「傲慢でわがままな」人間になります。
- 経済的に恵まれて、欲しいモノもすべて買い与えられて、両親からの(精神的な)愛情もタップリと受けて育つと「節度ある心優しい」人間になります。
実際に、そういう人間を何人も見てきました。