心理的カノッサの屈辱
前ページ『未完了を解消させる』で、木ノ下涼(著者)のエピソードの中で「直前になって怖気づいたり、状況が変わってしまったために実行できなかったときの反撃(再チャレンジ)は確実に実行することができた...」と話しました。ここでは、どうして再々チャレンジに至ることなくモチベーションが数倍に跳ね上がったのか、その理由についてお話しします。
勇気が恐怖に屈服すると...
未完了を解消させる段階で、何らかの心理的なリスクをともなう場合、誰もが一度や二度、いや、人によっては何度も経験することがある精神作用の一つに「心理的カノッサの屈辱」というものがあります。
心理的カノッサの屈辱は、たとえば片思いの異性がいるときに「告白する」ではなく「あきらめる」を選択したときに発生します。さらに、片想いをするたびに毎回毎回「あきらめる」を選択し続けていると、心理的カノッサの屈辱から来るストレスが蓄積されて、いずれ精神的に耐えられなくなります。
毎回毎回「あきらめる」を選択してしまう人は、失敗に対する恐怖心が強すぎる人です。そして、その多くは自分に自信がなく(もしも告白してフラれたら、ますます自信を失ってしまう...)と思っています。フラれることよりも、フラれることによって自信を失ってしまうことの方をより強く恐れている傾向があります。
ですが、実際には「失敗したときに感じる屈辱」よりも「失敗を恐れてあきらめてしまったときに感じる屈辱」の方が強く心に刻まれます。そして、その屈辱(ストレス)が脳内の無意識領域にシッカリと刻まれて蓄積されていくのです。
(※「失敗したときに感じる屈辱」も「失敗を恐れてあきらめてしまったときに感じる屈辱」も、どちらも味わいたくないから偶像恋愛にのめり込んだり、思考放棄や思考停止に陥ったりして、未完了を未完了のままにしてしまうのです。)
このような、蓄積すると大きくなる「失敗を恐れてあきらめてしまったときに感じる屈辱」こそが心理的カノッサの屈辱の正体です。人は、大きく膨らみすぎた「心理的カノッサの屈辱」に耐え切れなくなり、どこかの時点で「あきらめる」を選択するのをやめて「告白する」を選択するようになるのです。
このように、未完了を解消させようと意識すれば、たとえ「あきらめる」の方ばかりを選択し続けたとしても、最終的には晴れて「勇気を出して告白する」ための行動をとることができるわけです。
ここで、歴史上の出来事「カノッサの屈辱」について、簡単にまとめておきます。
- 11世紀の中世ヨーロッパで起こった事件。聖職者叙任権をめぐって、ローマ教皇グレゴリウス七世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世とが対立していた。
- 1076年、皇帝ハインリヒ四世が「ローマ教皇の廃止」を宣言。
- 同年、教皇グレゴリウス七世が、皇帝ハインリヒ四世に対して「ローマ教会からの破門」と「王位の剥奪」を宣言。(両者の対立が激化)
- 1077年、かねてより皇帝ハインリヒ四世に不満を抱いていた有力ドイツ諸侯たちが教皇側に味方して、神聖ローマ皇帝を廃して新しくドイツ王を決めることを宣言。
- 同年、窮地に追い込まれた皇帝ハインリヒ四世は、雪が降りしきるカノッサ城門の前で、三日間も断食をしながらローマ教皇に謝罪。(カノッサの屈辱)
歴史上の出来事の中で、表題に「屈辱」という言葉が含まれているものは他に類を見ません。それだけ、このときのローマ皇帝ハインリヒ四世が受けた屈辱は計り知れないものだったのでしょう。
ここで注目する点は、これが仮に、下っ端の枢機卿あたりがローマ教皇に破門されて謝罪したとしても、さほど大きな屈辱にはならなかっただろうという点です。しょせん下っ端ですから、何か不手際があって目上の者に謝罪するのは当たり前だからです。
要するに、どちらが優位なのか微妙な状況、つまり、ほぼ対等な関係性の中で一方的に謝罪・屈服したからこその屈辱なのです。
それでは、これを「心理的カノッサの屈辱」に当てはめるとどうなるでしょうか。
- 自分自身の「行動する理由(勇気)」と「行動しない理由(恐怖)」は、おのおのの選択肢において対等の関係にある。
恋愛(片思い)を例にして説明すると、
好きな異性に対して、告白する勇気とフラれる恐怖の狭間で悩んだことがある人は多いと思いますが、この二つはともに「感情」から来ることなので対等の関係にあります。
どういうことかと言うと、どちらを選択するにしても、他人に強制されることでもないし、直接的にお金がかかることでもありません。「勇気を出して告白するか?」「フラれるのを回避するためにあきらめるか?」 どちらを選ぶにしても、あなたの気持ち次第で自由に選ぶことができるわけです。つまり、あなたの「感情」が決定権の全てを握っているということです。
そんな中、勇気を出して告白してフラれた場合、これは相手の気持ちにもよることなので(仕方がない)と思うことができます。しかし、傷つくのが恐くて告白できなかった場合、その結果を導いたのはあくまでも自分自身です。
つまり、告白する勇気とフラれる恐怖が、自分の行動を決める決定権をめぐって争った結果、勇気が恐怖に屈服したことになります。こうなってしまうと、プライドが傷つくだけでなく自信も失ってしまいます。
このように、勇気が恐怖に屈服して「あきらめる」方を選択した場合、これが心理的カノッサの屈辱になるのです。
(※反対の場合...つまり、恐怖が勇気に屈して、怖いにもかかわらず告白した場合は心理的カノッサの屈辱にはなりません。何故なら、人は感覚的に「勇気を正、恐怖を負」ととらえているからです。正である勇気が勝てば勝利であり、負である恐怖が勝てば敗北なのです。)
また、恋愛以外のケースで説明すると、たとえば、試験勉強などで、勉強をする根気と遊びたい怠惰が頭の中で対立した場合、根気が怠惰に屈服すれば心理的カノッサの屈辱になります。
ただし、心理的カノッサの屈辱は、自分自身を大きく成長させる起爆剤にもなります。心理的カノッサの屈辱は本当に耐えがたいものなので、何回も繰り返し耐え続けることはできないからです。
そのためにも未完了を解消する習慣を身につけるのは大事なことなのです。この習慣を身につけさえすれば、もう前へ進むしか道が残されていないのですから...。
物語の中で主人公は、心理的カノッサの屈辱を避けたいと思うがゆえに、思考放棄・思考停止・偶像恋愛の状態に甘んじていました。自分の本当の欲求から目をそむけて、行動指針を決めないまま保留にし続けていれば(=未完了を未完了のままにしておけば)この心理的カノッサの屈辱を経験しなくて済むのですから...しかし、とうとう主人公は決断します。小説『蜜柑寮~キミを奪う天使とボクを救う悪魔~』は、この大いなる決断に至るまでの物語なのです。